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この時評は小川富二氏のウエブサイトで紹介されたものですが、ご本人の快諾をえましたので、こちらでも紹介いたします。 元のページは<英語こぼれ話>翻訳時評〜サイデンステッカー氏講演会です。
「日本文学の翻訳について」と題した E.G. Seidensticker 氏の城西国際大学(千葉県東金市)で開かれた講演会《無料》に出席しました。講演会場は同大学の立派なプレゼンテーションホール、定員70名、でおこなわれ、講演に続いて質疑応答、そのあとは場所を大学の貴賓室に移し和菓子を頂きながら、講師と親しく懇談の時間まであるという、細かいところまでよく行き届いた講演会でした。水田学長はじめ主催の日本研究センターの皆様に改めてお礼を申し上げます。
私が前回、サイデンステッカーさんにお目にかかったのは、オ・ヘンリーの短編に『After 20 Years - 20年後』というのがありますが、一昔前、たしかコロンビヤ大学でした。今年で82才になられましたが、まだまだ若い者には負けないと、hale and hearty 矍鑠(かくしゃく)としておられました。演題は『日本文学の翻訳について〜源氏物語、雪国、細雪』でしたが、紫式部、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、鴨長明の人柄、作品の特徴、日本語表現の<あわれ、わび、さび>など広範囲にわたりました。サイデンステッカー氏、ドナルド・キーン氏、はじめ多くの日本語に堪能な米国人を輩出している米国海軍日本語学校については以前から関心がありました。どのようにして僅か14ヶ月で日本語で書かれた新聞の社説、論壇などが読めるようになったのか、本人にぜひお聞きしたいと出席しました。私は海上自衛隊の語学教育の中枢にあたる第2術科学校(横須賀市田浦)幹部専修科英語課程<TOEFLと通訳技能>の講師を10年あまりつとめました。ここでの英語特別課程は、欧米の主要新聞を自由に読みこなす英語力ではなく、TOEFL550点相当の英語力をというものでした。平均8週間から14週間の集中講座(週5日、授業は早朝6時から深夜12時まで)の終了時には、ほぼ全員が目標点に到達していました。幹部の英語能力を全般的に向上させるともに将来の米国海軍大学院、欧米の一般大学院への留学、在外の大使館付き防衛駐在官などを選考する場合の対象者の拡大をはかることを目標としています。ちなみに、米国海軍日本語学校は日本の真珠湾攻撃直後の1941年にカリフォルニア州バークレーに設立され、翌年にコロラド州ボールダーに移りました。日本では明治33年(1900年)横須賀に海軍機関学校が設立され、英語、仏語、独語の外国語教育もおこなわれています。大正5年から2年あまり、芥川龍之介がこの海軍機関学校で英語教官として教壇に立っています。鎌倉から横須賀に通学途上の晩秋のある日の出来事をまとめたのが短編『蜜柑』です。詳しくは左の“海上自衛隊”または“LINK”から第二術科学校のホームページを参照してください。
参考:
海上自衛隊第二術科学校の幹部専修科英語課程(「海上自衛新聞」に掲載された『TOEFL研修生の一日』授業予定表を紹介します。なお、10年ほど続きましたが、この講座は現在は海外派兵、予算など諸事情で休講しています。)
<スナック錨にて急速補給>
講演の概要、文学作品の翻訳をめぐる質疑応答などを要約し私の感想などを加えて紹介いたします。なお、日本翻訳家協会(JAT=Japan Association of Translators)のニュースレターに日本航空・機内誌 Winds のサイデンステッカー氏の A Direct Translator をいう英文のインタビュー記事が転載されていますが、今回の講演会でも、翻訳者が留意すべきこと、逐語訳か意訳か、日本語表現の曖昧さ、など、同じような質疑応答がありました。
『雪国』の有名な冒頭部分のサイデンステッカー氏の訳文は、(1)国境の訳がない、(2)主語の有無などで、多くの方から批判されました。これについては次のようにお答えになっています。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.(国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった)川端康成の作品のむずかしさについて納得のいかない人は、自分でこの一節を一語一語追って訳して見られたらいいと思う。そして出来あがったものをぜひ見せてもらいたいものである。英文には主語が必要だが、この文にはない。長いトンネルを抜けたのは、ネズミですか、それともゴキブリですか?長いトンネルとは、ここでは清水トンネルなので汽車を主語にしました。また『国境』の読み方も、「くにざかい」、「こっきょう」、と話題になりますが、これは些細な問題で、越後、信濃の国境だからと、The border of provinces of Echigo and Shinano などとしては英語のリズムが崩れます。文学作品の翻訳にあたっては、読んで耳に心地よく響く音、euphonious であることも心がけるべきです。三国峠(み くに とうげ)十国峠(じっ こく とうげ)上越国境(じょうえつ こっ きょう)などは誰も何も疑問もなく使っています。『夜の底が白くなった』川端康成流のあいまいな日本語表現ですが、この部分は韻をふんで「white and night」と訳しました。
筆者註:
たしかに、くにざかい、の方がなにか温かを感じますが、両方に軍配はあがるようです。余談ですが、『荒城の月』の作詞者で英文学者でもあった土井晩翠の名前の読み方も<どい、つちい>をめぐる論争がありました。‘つちい’が多ければ、そうしようと本人が決めたという逸話もあります。昔、NHKのTV教養番組で『雪国』を取り上げた時にアナウンサーが「国境《こっきょう》のトンネルを抜けると雪国であった」と朗読したが、ゲストの川端康成氏は何もコメントされませんでした。これはマスコミ、文芸書でも取り上げましたが、いまだに統一見解はないようです。国境紛争で流血の続く国もありますが、国境の読み方で目くじらをたてる日本は平和ですね。
日本語は他の言語と違いきわめて曖昧で、ごまかすには最高の言葉ですと、サイデンステッカー氏は講演のはじめに発言されました。『細雪』の舞台は芦屋だったので、関西弁の訳し方、『源氏物語』『蜻蛉日記』などの古典では、あわれ、桜と梅、山吹と萩の訳語に苦労しました、というお答えもありました。川端康成氏は言葉を選ぶことに異常なくらいの感覚を持つ作家の一人です。『山の音』の始めの部分で主人公の信吾の足がただれているのを見た女中の加代が、「おずれでございますか?」と言ったから、いいことを言ふと、えらく感心した、その前の散歩の時の鼻緒ずれだがね。鼻緒ずれのすれに敬語の「お」をつけて、おずれと言った。気がきいて聞こえて感心したんだよ。ところが今気がついてみると、緒ずれと言ったんだね。敬語の“お”ぢゃなくて。鼻緒の“お”なんだね。なにも感心することはありやしない。サイデンステッカー氏はこの“お”を英訳しようとしたが、うまくいかなかった。あらゆる言葉を最大限に使って意味と雰囲気をあからさまではなく遠まわしに含みをもたせて伝えている川端氏の作品は翻訳がむずかしい。翻訳者は、川端氏が間接的に言わんとすること、単に暗示にとどめたことを、はっきりと表現せざるをえなくなり、そのために詩情をそこなうハメになる、と『伊豆の踊り子』の英訳本《原書房》のあとがきにも<川端作品と西欧>という見出しで記されています。
『伊豆の踊り子』では、「私は二十才、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた」
I was nineteen and traveling alone through the Izu Peninsula. My clothes were of the sort students wear, dark kimono, high wooden sandals, a school cap, a book sack over my shoulder.
原文の「二十才」は日本式の数え年なので、英訳では19才と訳した、ここでは“私”の年令よりも踊り子の年のほうが読者には興味があるはずです、というように筆者の質問にお答えになりました。米国も日本も20才以下は未成年者で、飲酒、喫煙など、法律上の扱いも違います。日本人では、数え年か満年令か、については気にもしないでそのまま原文どおり翻訳しがちですが、独身、既婚、ひとり立ちしているかなどについては風俗習慣の違う欧米の読者を意識した訳と思います。
米国海軍日本語学校の授業は、どのような教え方でしたか、という私の質問には、まず日本語の厚い辞書を与えられて4千語あまりの漢字を覚えさせられた?ことが役立っている。今でも、どちらかと言えば話すことよりも読むほうを好む、とお答えになりました。日米開戦当初はカリフォルニア州バークレーにあった日本語学校は日本人教師の大半が敵国人として収容所入りしたことと保安上の理由で1942年6月にコロラド州ボールダーのコロラド大学に移されました。全米から集まった約1100人(うち女性100人)が週に5日の集中授業を受けて、14ヶ月で日本語の新聞を読めるまでになり、ハワイで日本語の暗号解読、また戦場では捕虜の取調べ、最前線でも通訳とし活躍、サイパン、グァム、流黄島などでは投降の呼びかけ、鬼畜米英の兵士に捕まるよりは自殺をという民間人を翻意させるための説得もしたそうです。平成11年12月に行われた日本語国際センターセー設立10周年記念国際シンポジュウムでの「日本語と私」と題した記念講演では、サイデンステッカー氏より一才若い、ドナルド・キーン氏が海軍日本語学校について次のように述べています。<毎週6日間、毎日4時間の授業、2時間は読書です。当時の教科書は長沼直兄さんという方が戦前に作ったもので、いちばんいい教科書でした。そのときまでアメリカでは使われていなかったのです。主に駐日のアメリカの海軍武官などが勉強に使っていたもので、私たちはそんな教科書があるとは全然知りませんでした。2時間の読書と1時間の会話、そして最後の1時間は書き取りでした。私には書き取りがいちばん難しく、また当然のことですが、当時、私たちが覚えたのは旧仮名遣いと本字でした。怖い先生は黒板の前に立って、例えば「三井物産株式会社」「台湾」などを非常に速く書いたりしましたが、台湾の本字は実に画数が多いのです。私は画数の多い字がすきでしたがからわかりましたが、ほかの人たちは途中でやめました。ともかく、そういう教育が11ヶ月続いたのです。本当は一年半のはずでしたが、太平洋戦争で通訳や翻訳の人が足りないので予定より早く卒業をさせたわけです。11ヶ月の勉強で何ができたかというと、まず、字引を使いながら日本語を読めるようになりました。それから、会話も一応出来るようになりました。始めてハワイに行ったとき、私は捕虜の尋問ができるくらいでした。また、手紙も日本語で書けるようになりました。最後の一月ぐらいで私たちは文語も覚えたのです。当時は、どうせ誰も文語をしゃべることはない、何の役にもたたないだろうと私たちは思っていたのですが、しかし、それは大変な間違いでした。>
参考:
長沼直兄さん(1894-1973)は日本の英語教育の元祖、パーマーの教授法を踏襲し1923年にアメリカ大使館日本語教官に就任、渋谷南平台にある《財》言語文化研究所付属東京日本語学校、Naganuma School の創立者です。ここで日本語を学んだ卒業生は多く、1967年に27才でフインランドから宣教師として来日、東京長沼日本語学校で2年間学び、39才で日本に帰化、現在は神奈川県湯河原町に住む参議院議員のツルネンマルテイ氏がいます。ロータリークラブの卓話にお招きしたこともありますが、日本語らしい日本語を習得されています。「源氏物語」「好色一代女」三浦綾子の「氷点」などをフインランド語に翻訳しています。
語学をマスターするには、まず本人のヤル気、途中で投げ出さない根気、そして大切なことはいつまでも続ける年期、そしてよい教材によい教師、このどれが欠けても目的達成は無理のようです。前述の日本航空の機内誌では、サイデンステッカー氏は翻訳について次のように述べています。これは翻訳者に限らず私たち英語を学ぶ者にもあてはまるコメントです。
I stay as close to the original as I can, but for me it is very important for the translation to read smoothly - in other words, to have a certain literary quality and that means very frequently in matters of small detail departing from the original. A literal translation cannot be a very literary translation. But I stay as close to the original as I can. My theory of translation is that it is imitation; it is counterfeiting. And the counterfeiter who makes George Washington on the dollar bill look handsomer than he was is not a good counterfeiter.
There has to be a spiritual bond between the translation and the original work. But if someone tells you your translation is better than the original, you should consider it an insult because that is not what you're supposed to be doing. You are not supposed to be improving."
原文に忠実に翻訳しなさい、しかし読んで心地よく響き文学作品としての品格を保つこと、このためには原文から逸脱することもよくある。原文よりもよい翻訳であると言われるようでは翻訳家としては失格である。偽造1ドル札のジョージワシントンの肖像画が本物よりもハンサムでは通用しない。翻訳家は原作を変造してはいけない。という内容ですが、私もまったく同感です。JAT(日本翻訳家協会)メンバーで産業翻訳のベテラン、ニューヨーク在住の望月稔さんもこの記事に注目し「直訳主義」と題して JAT Web に寄稿されています。この中で、紙背を読むなかれ、翻訳者の中には原文に明示的に表現されていないことを、自分の解釈にもとづいて、翻訳に追加することによって、良い翻訳になったと思う人がいます。紙背に潜むものを読むことは翻訳者としては慎むべきであり、それを犯して得意になることはサイデンステッカー教授も述べられた偽造にあたります。すなわち、これが私の直訳の薦めです>と結んでいます。私もまったく同感で、法廷での弁護士、そして外国映画の字幕家にも同じことが言えるのではないかと思います。
参考:
紙背を読むなかれ〜眼光紙背に徹す、目の光が紙の裏までとおる、書かれている表面の意味だけではなく、その裏に隠されている深い意味までも理解する、という慣用句があります。これと似たものには、行間を読む、英語では read between the lines, があり、よく使われます。この投稿を拝見しメールを交換いたしましたが、望月さんも私と同じ昭和一桁生まれです、絢爛豪華、隔靴掻痒、琴瑟相和、慇懃無礼、臥薪嘗胆、などという表現がたくさん、古きよき昔の国定教科書にはありました。
暗号の傍受、解読: 日米合作映画『トラ!トラ!トラ!』にも米国海軍省情報部が日本政府から世界各地の大使館に送られた日本語通達を傍受(intercept)解読(decode)するシーンがあります。最近のものではナバホ族の海兵隊員が通信兵として活躍し、無線で攻撃目標を正確に指示する「ウインドトーカーズ」があります。この映画では英語ではなく、ナバホ族の言語による暗号交信で日本側はまったく解読不能だったそうです。山本五十六連合艦隊司令長官は、ハーバード大学に学んだ帝国海軍唯一の提督で日米戦争に強く反対していました。山本長官は日本語暗号で発信された前線視察の飛行計画が米国情報部により完全に解読されており、待ち伏せしていた米軍機により撃墜されて戦死、これが日本の敗戦につながりました。映画の中で血気にはやる幕僚たちを山本長官が米国を甘く見てはいけないと訓示するシーンがあります。この日本語と英語のセリフの一部を紹介します。英語では『私はワシントンに住み、ハーバード大学で学んだ。アメリカ人は誇り高く、立派な人間である。』しかし、この部分の日本語字幕は原文から逸脱して日本人に理解しやすく訳してあります。アメリカ人から見れば、最高学府であるハーバード大学で学んだ親米派の敵国の提督と、遠洋航海での途中に、たまたま寄港してアメリカを垣間見ただけの提督では大きな差があります。映画では日本語のセリフの英訳字幕は出ていませんので、この日本語訳でもよいのかもしれませんが、原文よりも立派にインプルーブされた翻訳の好例です。映画字幕の特有の翻訳とも言えますが、日本語訳には、ハーバードのハの字もないのが、どうも気になっています。
Finally, gentlemen...many misinformed Japanese...believe that America is a nation divided...isolationist...and that Americas are only interested in enjoying a life of luxury...and are spiritually and morally corrupt. But that is a great mistake. If war becomes inevitable...America would be the most formidable foe that we have ever fought. I have lived in Washington and studied at Harvard...so I know that Americans are a proud and just people.
「なお、もう一言つけ加えておく。多くの日本人はアメリカ人の民主的政治は統一を欠く政治、明朗に生活を楽しむ態度を贅沢、自由な精神を道徳の退廃とこじつける。国力は見かけ倒しと教え込まれている。とんでもない誤りである。もし戦わば、アメリカは日本がこれまで戦った最強の敵であることを肝に銘ぜよ。これは油断を戒めるための言葉ではない。私がこの目で、しっかりと見てきた事実である。」
海上自衛隊第二術科学校長室にて上の額は山本五十六連合艦隊司令長官のもの
アメリカの Who's Who 紳士録で山本五十六を検索すると下記のように紹介されています。
Admiral Isoroku Yamamoto studied at Harvard from 1919 to 1921, and returned to the United States in 1925 as the naval attache at the Japanese embassy in Washington, D.C. He didn't want to go to war with the United States, but when called upon by his country, Yamamoto, despite his own misgiving, planned the sneak attack on Pearl Harbor and then led the Japanese navy to early victories in World War II, When the U,S. decoded a Japanese message in 1943 that included Admiral Yamamoto's itinerary, they ambushed his plane in the south Pacific and killed him.
以上、多少なりとも参考になればと順不同で書きつらねました。言葉足らずのところ、私の記憶違いなどもあるかと思います。ご指摘、ご教示いただければ幸いです。