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Updated 2004-02-04
翻訳者の責務
関根 マイク

本文は日本人翻訳者を対象にしたものである。ただし、その基本的理念は外国人にも通じるはずである。

翻訳の「大衆化」

今、翻訳がブームだ。いや、正確にいえば英語がブームなのだが、その流行に便乗して翻訳・通訳が広く注目されている。書店には翻訳のハウツー本が氾濫し、翻訳学校は興隆を極め、その結果、近年多くの新人が「デビュー」した。翻訳の普及という観点からいえば非常に喜ばしいことであり、願ってもないことだ。しかし、この自称翻訳者の大半は高校英語レベルの範疇を未だ抜け出せないでいるアマチュアであり、そればかりか、日本語の表現能力にも疑問の余地を残す者ばかりなのだ。彼らは、翻訳学校などが扇動するプロパガンダを鵜呑みにし(「あなたもプロなれる」「SOHOで副収入」など)、翻訳に必要な知識・技術が未熟なまま市場に投げ出され(もっとも、進んで身を投じる者も多数いるが)、その結果、翻訳の「大衆化」を引き起こしてしまったのである。

無論、翻訳業界に限らず、世の中はそんなに甘くない。彼ら自称翻訳者の多くは遅かれ早かれ壁に突き当たり、自らの限界を自覚し、それまで抱いていた夢は己の愚鈍が生んだ幻想だったのだと悟る。ここまでは普通だろう。競争原理が働く市場なら、客はより良いものを選ぶだろうし、翻訳業界も例外ではない。未熟な翻訳者は淘汰されるはずなのだ。しかし、翻訳の「大衆化」は一種の病理と化してしまった。それに加え、品質を見極める側がその役割を果たせていない。いや、果たせられないというべきだろう。そもそも外国語はもちろんのこと、異文化理解に苦しんでいるから翻訳者に頼るのであり、原文が読めないのであれば品質の評価などできるはずがない。その意味で、翻訳業界では通常の市場原理は機能していない、あるいは機能しにくい、といえるだろう。

正常に機能していない市場原理で運良く次々と仕事を得てゆく翻訳者は次第に己の能力に自惚れ始め、自分は実力があると錯覚し、自身の未熟さを直視できなくなる。翻訳業界でも効率化が進んでいるが、これは翻訳の「大衆化」により深刻な悪循環をもたらしている。つまり、ただでさえ痴呆的な訳文が、効率化によって言葉の魂まで奪われてしまっているのだ。その結果、言語の価値観が歪みはじめていることについては言及するまでもない。彼ら「大衆翻訳者」は言葉の質よりも効率化を過剰に意識しているからなのか、訳文はどう見ても無造作としか思えないし、日本語の幼稚さが赤裸々に露呈している。彼らの無知を嘆くべきか、それを容認する大衆(注1)を憂うべきなのか。一種のルサンチマン(注2)を抱いているのだろう、と友人は言う。

翻訳の「大衆化」はまだまだ続くだろう。英語ブームが続く限り、夢を抱く者が後を絶たないのは自然であり、それを根底的に変えようとすること自体が無理な話なのだ。ならば私は僭越ながら「表現者としての翻訳者の責務とは何か」について語り、私の一翻訳者としての心得を説くことにより、大衆化した翻訳者が己の背負う重責について悟ることを期待しよう。

生きた言葉は文化が育む

それがどうした、それが現実だ、俺は自分自身の生活で精一杯なんだ、という意見もあると推測する。しかし、このような類の意見は、徹底した個人主義を信条とする人間がする発言であって、彼らは翻訳者の仕事が社会に及ぼす影響というものを考えていない。「私は愚民です」と、公然と口にするようなものである。翻訳者も知識人や作家と同様、文筆を生業とする人間である。山岡洋一氏が『翻訳通信』(第2期第7号)で「いつの時代にも、日本語の規範を確立するのは物書きの役割である」と述べたが、多くの翻訳者はその重責が存在することすら意識していない、あるいは薄々自覚していてもそれを担う覚悟すらない、というのが実状ではないだろうか。

ネットで翻訳関連サイトを閲覧していると、フリーランス翻訳者の(翻訳会社も例外ではないが)「正確な翻訳を提供します」という宣伝文句を頻繁に目にする。客にアピールしなければならない立場上、このようなプロパガンダは必要だろう。しかし、「正確な翻訳」という意味について熟考したことがあるのか、と疑問に思わざるを得ない。なぜなら、「正確な翻訳」などこの世に未だ存在しないからだ。翻訳の「翻」は「翻刻」に由来するが、「翻刻」の定義は『大辞林 第二版』では以下のように記されている。

(1) 写本や刊本を、そのままの内容で、新たに木版または活版で刊行すること。
(2) 外国の刊本を、そのままの内容で新たに刊行すること。

留意すべきは「そのままの内容」である。だが、異なる価値を同等にすることは所詮「理想」であり「現実」ではない。それゆえ、私は傲慢ながらこの世に正しい翻訳など未だ存在しないと喝破したい。真意を問うなら原作者に訊け、と。

翻訳という作業は言語の破壊と再生であると私は思う。一つの言語の構造と意味を概念として捉え解釈し、それをもう一つの言語で模型のように組み立てるのである。これでは「翻訳は裏切り者だ」と皮肉られてもしかたがない。村上春樹も『翻訳夜話』で「僕が書いたものと、そこに訳されたものとのあいだには、ある種の乖離というか遊離がある」と、自著の翻訳本について語っている。モルチエ・ローランも『文化の翻訳可能性』で「どんな翻訳であっても、譲歩や近似値を前提とせざるをえないということは周知の通りである」と論じた。翻訳の過程において、原作者の価値観が翻訳者の手で破壊されるのは疑いようのない事実であり、いやしくもその手で創造されるものは永遠に不確実であり、もはやそこに真実は無い。その意味では、翻訳とは極めて悲しく、空しい仕事だと半ばニヒリズムに浸る日もある。しかし、言葉を愛し、翻訳を愛する人間は、自身の仕事に対して絶対の基準や価値を求めなければならない。基準がなければ無責任なアマチュアであることを認め、価値を見出せなければ仕事をする意義がなくなるからだ。そしてこの「価値」とは翻訳者個人の「理想」ではないか、と私は考える。

それゆえ、翻訳者が日々努めるべきことは、原作者の意図という制約の中で存分に個性を発揮すること、いわゆる「生きた日本語」を書くことではないだろうか。それは翻訳者自身の在りかた、「理想」を追求することでもある。哲学者ソクラテスは「真の理想を目指すために理性はある」と説いた。翻訳者にとって「真の理想」とは、原文を「そのままの内容」で、他言語で表現し伝達することであるが、その追求は途方もなく長い道のりであり、終わらない可能性すら十分にある。だから、私たち翻訳者は、各々の「理性」を駆使して言葉を注意深く選別し、「真の理想」により近い「一翻訳者としての理想」を目指す。たった一つの言葉の訳にどうしても納得がいかず、膨大な時間を費やした経験のある翻訳者は決して私だけではないだろう。そんな地道な作業を長い年月にわたり反復することで翻訳者は「真の理想」に近づいていくのではないだろうか。マルティン・ハイデガーの主著『存在と時間』が桑木勉、松尾啓吉、原祐・渡邊二郎、細谷貞雄、辻村公一と、何十年もの時を経てもまだ訳され続けているのは、上に述べた「真の理想」の追求に他ならない。

ここで忘れてはいけないのが、自分という個人を育んだ文化への愛なくして生きた言葉は書けない、ということだ。「理性」は「常識」から生まれるものであり、「常識」は「文化」によって形成される。高尚な翻訳を目指すのなら、まずは日本文化を愛することから始めるべきだ。これは新渡戸稲造や夏目漱石を読破しろ、ということではない。もちろん、読書は個の育成に必要不可欠だが、私が言いたいのは肌で文化を感じ、自身の文化観を呼び覚ましなさい、ということだ。村上陽一郎は『文化の翻訳可能性』で「…別の言語系に出逢ったときにも、自分の生まれ育った言語系の持つ働きの影響下に、それを解釈せざるを得ない…」と述べた。西部邁も『知性の構造』で「表現は矛盾の表出である―そして、表現の真実は矛盾の平衡のうちに宿る」「平衡の知恵は伝統のうちに宿る」と説いた。くどいようだが、異なる価値を同等にすること自体が矛盾しているのであり、その矛盾をあえて表現するには伝統文化に育まれた確固たる価値観が不可欠なのである。日本語もまた文化であり、日本語能力が欠乏しているのは文化観が貧しいからで、これは翻訳以前の問題なのだ。

ときには把握していない題材について、あたかも熟知しているように語らなければいけない、というのは翻訳者の宿命であり、その意味では役者に近いものがある。ダスティン・ホフマンは映画で自閉症の役を演じることが決定してすぐに精神病院に通院し始め、数週間にわたり自閉症患者を徹底的に観察・分析したという。翻訳者もこれに学ばなければならない。実体験できるのなら必ずしなければならないし、それができないなら、資料を読みあさり、有識者・経験者に相談するなどして、題材に関しての理解を可能な限り深めなければならない。当然のことかもしれないが、これを実践しない犯罪的な大衆翻訳者が跋扈している。それは偽善であり、欺瞞である。

表現者としての翻訳者の責務

昔、思想家オルテガは「売春婦は肉体をさらし、知識人は精神をさらす。その意味で知識人は売春婦より恥ずかしい存在かもしれない」と述べた。翻訳者も例外ではない。少なくとも言語の分野において、翻訳者は知識人であり、精神をさらすことが職務なのだ。狭隘な精神が創造する言葉は読者を惑乱し、堕落した精神は腐敗した言葉しか生まない。不易の価値、それは「真の理想」であるが、それを探求するのなら、まず精神の充実を図るのが筋ではないか。それは文化への愛という普遍的価値に帰結するのである。

高度な言語能力を有し、国際交流の一端を担う翻訳者は、ある意味で選ばれた人間である。それゆえ、表現者としての翻訳者の責務は大きい。我々が創造する言葉は多くの人々に読まれ、解釈を導き、新たな価値を形成する。その価値が周囲に伝播することは確実であり、しいては社会全体に多大なる影響を与えることになるのだ。「調和のとれた異文化間の関係は、知的で、多様な情報を備えていて、さらに繊細の精神に浸透された[翻訳者]の努力をもって、はじめて可能となる。[翻訳者]にとって重要なのは、分析したもののなかに人間としての統一性を再発見すること、しかも外国文化のなかの異質な多岐性がわれわれの遺産にもたらすものを尊重しながら、そうすることなのである」とはローランの言葉である。翻訳者であることは、日本語の伝承・規範・教育において重要な役割を請け負うということであり、それは若い世代に指針を与え、本来歩むべき道へと誘うことでもあるのだ。文化から距離をおく翻訳者は、感性と悟性が麻痺、または欠落しているのであり、その愚者ぶりは彼の作品に反映されるだろう。翻訳者がさらけだす精神は、常に読者の常識に裁かれる運命にあり、歴史において裁かれ続けるという事実を忘れてはならない。

自由には必ず責任が伴う。翻訳はある程度の制約があるとはいえ、基本的に翻訳者個人の裁量に委ねられている部分が圧倒的に多い。その責任を負担する覚悟が無い者は翻訳などすべきではない。逆に、責任を認識し、誇りをもって負担し、「真の理想」を追求する旅に赴く決心ができる人間こそ、自分自身をプロと呼べるのではないだろうか。

「やってみないで事の成否を疑うのは、勇気ある人間とは言えない」と、福沢諭吉は『学問のすすめ』で説いた。先人が後世に精神を託したように、翻訳者もまた、世代を超えて精神をさらけださなければならない。

注1:懐疑無き心性をもつ人々

注2:ニーチェ曰く「被支配者の支配者へ対する恨みの意」
参考文献
大橋良介(編)『文化の翻訳可能性』、人文書院、1993年
西部邁『知性の構造』、角川春樹事務所、1996年
村上春樹・柴田元幸著『翻訳夜話』、文春新書、2000年
福沢諭吉著、檜谷昭彦訳『学問のすすめ』、三笠書房、2001年
山岡洋一『翻訳通信』第2期第7号
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/

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