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直訳主義なるもの
直訳主義(その2)
サイデンステッカー記事
直訳主義という偽悪的な題を掲げて進めてきましたが、当初からすると大分時間も経ち、言いたかったこともほぼ言い尽くしてしまった感がありますので、この辺で終わりにします。元々、直訳主義というのは、翻訳における自分の力のなさを意識したことから始まり、その原因を探るうちに、果たして翻訳というものに正確さを求めることができるのだろうかという疑問を持ち、産業翻訳においては明らかに無理な要素がいくつかあると気づいたことから、開き直りが生じ、無理にわかったように見せるより、原文に忠実であるほうが本質的には顧客の要求を満たすことが多いだろうと思うようになったことに発しています。
今回は私の主張をまとめることが主眼ですが、最後にもう少しだけ掘り下げてみようと思います。
私の直訳主義の骨子は、原文になるべく忠実に翻訳することにあります。ただし、日本語と英語では同じ内容でも構文が違うのは当たり前ですから、直訳と言っても翻訳の目標言語として読み難いもので良い、むしろそれが良いのだと言っているわけではありません。そんなことは、当たり前ではないか、なにお大げさに直訳主義なんて言うのかとおっしゃるでしょうが、でも私の主張は以下のように多少違います。
まず第一に、「日本語らしい日本語を書こう」というような訴えには、私は無条件には賛成できません。滑らかに読めなければいけないというと、たとえば原文が長いから短くぶつ切りにすべきだということになったり、原文の精密な構成を無視して、角を丸めてつるつるにすることが良いことだとなりかねないからです。言語は世の変化と共に変わるのが当たり前であり、globalizationが進めば、米国の会社の日本の子会社が親会社と裁判で争うことになったとき、裁判がシンガポールの法廷でシンガポールの法律で裁かれ、裁判に使われる言語が英語であるというケースが起こり得ます(すでに現実になっていることはいくつかの契約書の翻訳から知りました。)。そのとき、もし原契約書の日本語訳を読みやすいからという理由でぶつ切りになったり、角を丸めてつるつるにしており、それで子会社の日本人の経営者が原文にあった厳密な定義を理解していなかったら、いったいどうなるでしょうか。21世紀の日本語はある面では従来の日本語らしくない、新しい日本語、言わば国際化された日本語、むしろごつごつした日本語が創られることを翻訳者は、また世間は、許すべきであると私は信じ、それが私の直訳主義の一つの要素です。
また、上記の裏側に当るのが、いわゆる native English speaker たちが起こし勝ちな勝手な解釈に基づく和文英訳です。例えば、こたつを footwarmer と訳すことです。こたつは日本にしかないものであり、したがって簡単に言えば翻訳できない単語です。Footwarmer と商品は米国に存在するが、まったく異なる機能を持っており、こたつと共通するのはただ一点、足を暖めるという機能だけであり、こたつはそのほかにいくつかの機能を持ち、また、肝心の熱伝達の手段も異なっています。日本語に発見される単語が必ず英語にも存在すると思うことが間違いです。当然、英語に発見される単語が必ず日本語にも存在すると思うこともまた間違いです。翻訳という作業の限界がここにあり、こういった限界に対しては正直に対応してkotasuと書き、注釈などの方法で補うしか方法はないでしょう。これはあまりにも単純で良い例ではないので、むしろ誤解を招きかねませんが、原文である日本語を生半可に理解して多分これでよいだろうと滑らかな英文にすることは、目的にもよるが正しいことではありません。たとえ結果が不器用でも、いわゆる「英語らしくなくても」正確さを追求すべき場合が少なくありません。Native English speaker が読んで滑らかに読めたから、あるいはそのために原文の内容を曲げたり、省略したりすることは誤りです。顧客と native English speaker の翻訳者がしばしば紛争を起こすのは、ここにその理由があります。またそのために日本人のクライアントが native English speaker である自分の英語を拒否したとして、フラストレーションを感じる proofreader/rewriter が少なくないようですが、上記の意味でもう一度考え直すべき点もあるのではないでしょうか。
翻って、翻訳者として顧客に申し上げたいのは、翻訳者という技術者は、2カ国語以上をある程度、読み書きする技術を身につけているだけの人間であり、その他の知識はたまたま「門前の小僧習わずして書を読む」的に身につけているに過ぎず、多少の深みのある知識を持っているとすれば、その翻訳者がかつて機械技術者であったり、看護師であったり、法律を学んだことがあったというだけあり、その他の分野になると、専門分野の知識は中学生なみとご承知いただきたいのです。それでも翻訳者は与えられた仕事をこなさざるを得ない立場にあるのです。また、顧客の立場としても、たとえば繊維機械の専門家であってしかも日英両国語に堪能なんていう、プロの翻訳者を探すということになったら簡単なことではないでしょう。したがって現実には必ず、妥協があり、上記の例で言えば、どんな分野でもいいから、とにかくエンジニアならいいといった妥協をせざるを得ないに決まっています。こういう理解さえあれば、誰かが自分の会社の同じ仕事をする同僚に手短に、ほとんど暗号的に書いた文章を、行き当たりばったりに選択した翻訳者に的確に訳せというのは馬鹿げた発想であると気づくはずです。最終的な顧客と翻訳者の間に翻訳会社が入るときには、その点がさらにあいまいになります。これも翻訳という仕事は所詮無理な仕事であるという一例です。そんなことはめったにないだろうとおっしゃるのはあなたが訴訟事件の文書の翻訳をやったことがないからでしょう。そんな場合でも翻訳者は全精力を傾けて直訳するしかありません。どこに日本語(英語)らしい表現なんていうことを気にする余裕があるでしょうか。顧客は大体の内容さえわかれば、自分の知識で解読できるはずですし、なお、どうしても書き直したければ(またその能力があれば)勝手に書き直せばいいでしょう。どうせあなた達のjargonは知らないし、あなた達が一生かかって覚えた知識を翻訳者がせいぜい数時間参考書を読んだとて、十分理解するわけがないのですから、間違っていることもあるのは当然でしょう。
さて、何も書くことがなくなっていたような気がしましたが、少しありました。知りきれトンボ的、竜頭蛇尾もいいところですが、ここで私の主張を箇条書きにしてみると次のようになります。いずれも産業翻訳の場合、しかも科学技術、法律、ビジネスなどの比較的硬い内容の文書の翻訳について考えたもので、産業翻訳であっても、表現の自由度の高い広告文などは対象にしていません。
1)自分の解釈にしたがって、原文にない内容を足したり引いたりして、その結果原文の内容を勝手に変更することはできるだけ避けること。
2)特に、上記のような変更をただ日本語らしい、あるいは英語らしい文章にしたいからという目的でやることは、絶対に避けること。(どっちが罪が深いかを考えるべきである。)
3)Proofreader/editorは内容の正誤に神経を集中すべきであり、また、自分も知らないことに対しては、翻訳者の判断に任せておくこと。
4)原文の欠点、たとえば論旨の不明瞭さ、などは翻訳者の責任外であり、したがってそれを訂正しようとしないこと。明白な誤り以外は、訂正しないこと。決して翻訳の方が、原文より見事であると言われることを望まないこと。
最後までお付き合いいただいたことを感謝します。またどこかでお会いしましょう。
望月 稔 Port Washington, NY