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Updated 2004-06-22
専門分化の危険性
by 関根 マイク

翻訳者としてある程度経験を積み、中堅・ベテランのレベルになってくると、新人翻訳者にきまって訊かれる質問がある。それは「どうしたら翻訳者として成功できるのですか」という類のものである。これに対する答えは様々だが、インターネット上で交わされている議論や、翻訳者の交流会などで飛び交う言論に耳を傾けると、きまって「専門分野をもちなさい」という意見が大多数を占めている印象が深い。

この多数派の提言に戸惑いを覚えるのは私だけだろうか。たしかに人間の能力は有限であり、複数の分野を股にかけるよりは特定の分野についての専門家になる方が合理的であるし、安定した収入も得られるはずだろう。しかし今日の翻訳業界における専門分化の傾向は、各分野が独自の展開を遂げてきたゆえ、それに携わる翻訳者を「群盲象を撫でる」、または「木を見て森を見ず」の状態に導いてしまったのではないか。そしてそれは多くの翻訳者を大衆的・機械的翻訳者に凋落させてしまったのではないか。

専門分化の傾向

特許、IT、法律など、翻訳の専門分野を枚挙していけば浜の真砂のような有様になるだろう。今や「翻訳」の基礎技術を教える翻訳学校は徐々にその姿を消しつつあり、特定の「翻訳分野」について教えるのが主流になっている。

実験科学に例を見るように、専門分化そのものはまったく珍しいものではない。17世紀に実験科学の集合名詞である物理学がニュートンらによって体系化された後、18世紀にさらなる発展を遂げるために科学者の専門分化が必要になった[1] 。しかし、オルテガも指摘したように、これら科学者たちは「一世代ごとに自分の活動範囲を縮小してゆかなければならなかったために、徐々に科学の他分野との接触を失ってゆき、宇宙の総体的解明から遠ざかった」、つまり自分の専門分野の分析に身を沈めすぎたあまり、本来目指していたはずの究極的目的を見失ってしまったのである。

科学同様、翻訳者の専門分化は奨励され、今や特定の専門分野を持ち、その狭い領域に関する事柄以外はいっさい無知であることを公言する輩も珍しくなくなってきた。あたかも総合的知識の欠如が美徳であるかのように。それゆえか今日、かつてないほど多数の翻訳者が存在するというのに、そのなかで真に「教養人」と呼べる者はごく少数である。翻訳をする上で本質的に避けて通れない「意味とは何か」「言語とは何か」などの問いは、ほぼ完全に忘却されてしまっている。

科学者の専門分化は、結果的にはその目的を見失ってしまう事態に陥ったが、それ自体は正当であり、有意義であった。あとは新しくより強力な体系によって再編されることを待つだけである。しかし、翻訳者の専門分化は科学者のそれと相異なり、翻訳そのものが体系化されていないということと、翻訳そのものの発展を目的としたものではないことに注目しなくてはならない。

専門分化と迎合主義

専門分化の目的が翻訳そのものの発展でないとすれば、いったい何なのか。翻訳に限らず、全ての学問は体系化されなければ依拠するべく基盤が当然ないのだから、発展は原理的に不可能である。では翻訳は体系化されているのか。これについては、世界的にもごく一部の大学を除いては翻訳がいまだに学問として認められていない現状からして一目瞭然だろう[2] 。実際、「翻訳はここ数十年で随分と発展した」と素直に言える翻訳者がいるのだろうか。翻訳支援ツールやIT技術の発達などは作業の合理化を実現したが、肝心の翻訳者の技術にはあまり影響を与えていないし、むしろ翻訳者の創造性を妨げ、思考停止状態に導いている感さえある。

今日、翻訳者の専門分化が推進されているのは、決して翻訳そのものの発展が目的ではなく、企業の「使いやすい翻訳者」が欲しいという需要サイドと、大多数の翻訳者の「使われやすい(仕事がきれない)翻訳者」になりたいという供給サイドのニーズが合致しているからである。つまり、翻訳者の専門分化は仕事供給者である企業に迎合したものであるにすぎない。

しかしこの合致、そしてある種の契約は、翻訳者の人間性を圧迫し、その人間らしさを奪いとってしまうことがある。これはマルクスが「人間疎外」と呼んだものなのだが、これは人間を一つの物や部品として扱い、本質的に労働力商品としか認めない現象のことをいう。企業は翻訳者を商品として扱い、翻訳者は安定した収入と引き換えにみずから奴隷的・機械的存在に成り下がってしまう(もっとも、これに気付いていない翻訳者も多いが)。こうした翻訳者は自己の主体性を喪失した状態で、つまり非本来的な在り方で生活している。こうした人間は、世間一般的な、平均的な「ひと」へと解消され頽落してしまっている人間である。この「ひと」とは、ハイデガー曰く、誰にもあてはまる既製品の人間へと転落した現存在[3]のことである。

知識人は「誰に迎合することもなく、かたくなまでに独立を守りぬく人間」だとラッセル・ジャコビーは言った。自己の独立を軽視して迎合するということは、サイードが皮肉たっぷりに現代の知識人の有様を表現したように(翻訳者も知識人であることを忘れてはならない)、「…文学教授めいたものになるほかないだろう。つまり、安定した収入を得て象牙の塔にひきこもり、教室の外の世界に対して何の関心もいだかない人間になるほかないということだ。」ここでいう「教室」が自分の専門分野を指しているのは言うまでもない。

専門分化と教養の欠如

サイードは専門分化を知識人の独創性と意志を脅かす圧力の一つとして見ていた。これは以下に引用する一節からもわかる。

 問題なのは、専門能力が、直接的な関心事−例えばヴィクトリア時代の恋愛詩−の外にあるものをみえなくさせ、一般的な教養を犠牲にして、人を特定の権威なり規範的な考えかただけに迎合させることであり、そうなると専門能力の養成は、それに対して支払われる代価にみあわないということになる。
 たとえば文学研究という、わたしがとくに関心を寄せてきた分野では、研究が専門的になるということは、形式的な技法にのみ関心を寄せ、文学作品の形成にいかなる現実的経験が実際に関与したかを考える歴史意識のほうを、なおざりにすることを意味する。研究が専門的になればなるほど、芸術なり思想なりをつくりあげるときのなまなましいいとなみは見失われてしまう。いきおい、あなたは非人格的な理論なり方法しか頼ることができず、知識人とか芸術を、一連の選択や決断、一連の関与と連帯の産物というふうにみることができなくなる。文学の専門家であるということは、往々にして、歴史や音楽や政治にはまったく疎いという意味になる。[4]

専門分野をもつということは、その専門分野については知者になるが、その他のことについては無知になるということである。しかし大多数の翻訳者はそれを知りながら満足し、閉鎖的になってしまっているのではないだろうか。それは「翻訳」の本質から目をそむけることであり、翻訳者の「物品化」をみずから推し進めているようなものなのである。

過去の偉大な学者を振り返ってみると、その多くは特定の学問分野で名を馳せていても、実はそれ以外にも複数の学問で精緻な知識をもち極めて多才だったことがわかる。ゴットフリート・ライプニッツは哲学者・数学者・科学者・政治家・外交官と少なくとも五つの顔をもち、ルネ・デカルトは哲学・数学・自然科学一般に精通していた。近年では故バートランド・ラッセル(論理学・数学・哲学)やクロード・レヴィ=ストロース(文化人類学・哲学)あたりが有名である。

翻訳者も特定の専門分野に拘泥せず、総合者としての知恵を身につけていくということが今まさに必要とされている。それは自分のアイデンティティーを確立させ、独立を確保し、ひいては翻訳たるものの総合的理解へと繋がっていく。それは必然的に翻訳の体系化、そしてその社会的評価の向上へと向かっていくのである。

知識人としての高貴な在り方

今は「風潮」の時代であり、「漂流者」の時代である[5] 。翻訳業界でも成功の尺度は収入の額で決定されるのが主流なようであり、大多数はその流れに抵抗せず身をまかせて流されていってしまっている。しかしその過程で我々は、かつて実験科学に起きたように、本来の目的から遠ざかってしまい、あまつさえ知識人としての高貴な在り方を忘れてしまい、低俗な拝金主義に走ってしまったのではないか。拝金主義的な傾向が顕著な今だからこそ、我々も利益とか利害に、もしくは狭量な専門分野にしばられることなく、専門分野という制限から自由になって己の可能性を追及できないのか。例え専門家であっても、絶えず自分自身を問いつづけ、ときには猛省し、総合者としての道を歩み続けることを忘れないことは、可能性を押し広げることであり、決して物品化されない教養を得ることなのである。

参考文献

脚注

  1. オルテガは科学者の専門分化が必要なのであって、科学それ自体は専門文化主義ではないとしている。その意味では翻訳に専門分化が起こっているのではなくて、翻訳者に起こっているとすべきだろう。 [Back]
  2. IJET15での小坂貴史氏の講義『翻訳で教授になる法』でも、翻訳がまだ学問として認められていない苦しい現状が語られた。 [Back]
  3. 自らの存在を問題にする独自な存在者。しかし現存在も人間疎外によって道具や物に限りなく近い存在に成り下がる。 [Back]
  4. 『知識人とは何か』p.127-128 [Back]
  5. 『大衆の反逆』p.148
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